吸ってはいけない「クロロホルム」

解説

クロロホルムとは?

クロロホルムは化学式CHCl3を持つ有機化合物です。かつては麻酔薬や医薬品の調製に広く使われていましたが、現在は使用されていません。しかし、研究分野や工業において依然重要な役割を持つ物質です。

クロロホルムは比較的反応性が低く、多くの有機液体と混ざりやすい上に容易に揮発する特性を持っています。研究分野ではこの特徴を利用してクロロホルムを一般的な溶媒として使用しています。特にクロロホルムはNMR分光法における溶媒として重要であり、重水素を含むクロロホルム(CDCl3)が一般的に使用されています。また、生命科学分野ではフェノール、クロロホルム、イソアミルアルコールの混合物は、DNAおよびRNAの抽出においてタンパク質などの核酸以外の物質を除去する目的で使用されています。他にも、製薬や染料、殺虫剤の製造において溶媒としても活躍しています。

クロロホルムの歴史

クロロホルムは、1831年にドイツの化学者ユストゥス・フォン・リービッヒ、フランスの科学者ウジェーヌ・ソーベイラン、サミュエル・ガスリーによって別々に発見された物質です。その後、19世紀半ばに麻酔薬としての使用が開始されたと言われています。

1842年、ロンドンのロバート・モーティマー・グローバーによって、実験動物に対する麻酔作用が発見され、1847年、スコットランドの医師であるジェームズ・ヤング・シンプソンによって、はじめて人間に対する麻酔作用が実証されました。それから使用実績を積み重ね、ついにクロロホルム麻酔を出産に用いるようになっていきました。宗教的な理由で反発はあったようですが、ヴィクトリア女王が1853年と1857年の出産時に無痛分娩のためクロロホルム麻酔を受けたことで、受け入れられていったと言われています。

その後、クロロホルム麻酔はヨーロッパに広まりましたが、その使用が増えるにつれて、その毒性、特に肝障害不整脈を引き起こしやすいのではないか?と言われるようになりました。これらの副作用は「中毒者の突然死」とも表現され、クロロホルムの安全性に疑問が発生したのです。それを検証してみたところ、「クロロホルムの使用はエーテルより数倍死亡率が高い」という結論が出ました。そのため、20世紀初頭には麻酔剤としての主役の座をジエチルエーテルなど、より安全性が高いと思われる他の麻酔薬に譲ることとなりました。

クロロホルムを吸入すると意識を失うのか?

サスペンスや創作の中で「布に染み込ませたクロロホルムを嗅がせることで意識を奪う」という描写がされることがあります。実際のところ、これは可能なのでしょうか?それについて簡単に解説しようと思います。

結論から言うと、無理そうです。理由が二つあるので紹介します。

1つ目は、布に染み込ませて嗅がせる方法では高いクロロホルム濃度を作り出すことに期待できないためです。布に染み込ませるだけなので気密性など全くありません。したがって、たとえ気化したとしても大した濃度にはならないはずです。
2つ目は呼吸量の問題です。成人の一回に呼吸する量は約500mL、全肺気量(肺の中の空気の量)が約4500mL程度であると言われています。そのため、1呼吸では9分の1程度しか入れ替わらないことになります。

このふたつを組み合わせると、布にしみこませたクロロホルムを嗅がせる方法は、「クロロホルム濃度がさほど高くない気体を少し吸わせる方法」であると言えます。クロロホルムには確かに麻酔作用がありますが、それは体内で十分な濃度を保った場合です。したがって、この方法で意識を失わせるのは難しいと思います。

クロロホルムの毒性

LD50については別記事で解説をしているのでそちらをご覧ください。

最初に発生するのは中枢神経系に対する作用です。最初は興奮性の症状が発生し、それから抑制の方に傾いていくことで呼吸抑制、昏睡のような症状が出てきます。そして、それと同時に心臓と肺に症状が現れます。

死因として多いのは、不整脈による突然死や、あまりにクロロホルム濃度が高い場合は一気に酸欠で死亡することが多いようです。酸欠の話は前回の窒素の解説でしたので、そちらを参照してください。

作用機序

今回3つの作用機序を表示していますが、大きく分けて上二つ、下一つの作用機序に分けることが出来ます。また、麻酔として作用する機序は全く別に存在していますが、今回は毒物ということでそちらは解説はしません。

そして、今回は前提知識として「酸とタンパク質の変性」、「心臓の収縮とイオンの流れ」についての知識が必要になります。前提知識は別記事で解説をしているので、そちらを確認してください。

クロロホルムの代謝

クロロホルムには大きくわけて「酸化的代謝」「還元的代謝」の二通りの代謝経路が存在しています。条件によってどちらの代謝経路が優先されるという情報は今のところ無いようです。

酸化的代謝

クロロホルムは CYP2E1によって代謝され、トリクロロメタノールが生成します。そのトリクロロメタノールから塩化水素が脱離すると、反応中間体として「ホスゲン」が生成します。ホスゲンはそれから様々な代謝を受け排泄されます。ここでは水との反応により二酸化炭素が生成する場合と、生体内分子と結合する反応を例に示しました。他には、グルタチオンやシステインを含むチオール類との反応により付加体が生成する場合等があります。生体で行われる代謝としては、二酸化炭素が発生する経路が主要であると考えられています。今回は、この反応で発生する物質が何を引き起こすのかを見てきます。

ホスゲン
ホスゲンは安定性があまり高くないため、体内に存在するタンパク質やDNAなどの分子と無秩序に反応します。細胞の生存にタンパク質の活動は必要不可欠なものであるから、それと結合して作用してしまうホスゲンは、細胞に致命的なダメージを与えてしまうわけです。

ちなみに、最初に行われるにCYP2E1よる代謝は肝臓で行われて、そこでホスゲンが発生することになるから、肝臓に対するダメージが大きいということも理解出来ます。

塩酸
タンパク質は適切な立体構造を持っていないと正しく機能することが出来ません。ホスゲンの代謝によって大量に発生した塩酸は、その周囲のpHを低下させます。つまり、周辺の環境のpHが低下するとアミノ酸の構造が変化し、それによってタンパク質の立体構造が破壊されてタンパク質が変性してしまうわけです。当然、タンパク質は生命維持に必須の役割を果たしているため、そのタンパク質の機能を喪失させるこの変化は大きな問題になります。

還元的代謝

還元的な代謝は、こちらも同じく代謝酵素であるCYP2E1によって代謝されて、「ジクロロメチルラジカル」という反応中間体が生成します。この反応中間体は非常に反応性が高いため、生体内に存在するさまざまな物質と無秩序に結合してしまいます。これも生体の正常な機能を妨害するため、毒として作用することとなります。

hERGチャネル

心筋細胞の細胞膜にはイオンのやり取りをするためのイオンチャネルやポンプが存在しており、それらがいい感じに機能することでイオンのやり取りが行われています。今回は、K+の通り道になっている「hERGチャネル(human Ether-a-go-go Related Gene)」について解説します。

このチャネルの名前の由来が結構面白いので、まずは由来からお話しします。
とある遺伝子に変異が生じたショウジョウバエをエーテルで麻酔すると、なんと、「ダンスするように脚を震えさせる」ことが発見されました。それを見た研究者は、カリフォルニア州にあるナイトクラブの「ウィスキー・ア・ゴーゴー」で人気だったダンスにちなんで、「ether-a-go-go」と命名しました。ウイスキーじゃなくてエーテルでダンスをしていたからether-a-go-goというわけです。
それから、ヒトでもその遺伝子とかなり似た遺伝子が発見されたため、ヒトバージョンのether-a-go-go、つまりhuman Ether-a-go-go Related Gene(hERG)というわけです。

hERGチャネルは何種類かあるK+チャネルのひとつで、電位依存性Kチャネルに分類されるものです。K+の移動は、「瞬時活性型チャネル」と「緩徐活性型チャネル」の2種類のチャネルから構成されていると言われていて、hERGチャネルは瞬時活性型に該当します。hERGチャネルは心臓の電位を元に戻すため、それなりの量のK+を移動させていると言われています。

心臓の正常な働きには正常なイオンの移動が適切に行われなければなりません。そのため、K+の移動を担当するhERGチャネルは心臓の働きに重要な機能を持っています。

不整脈発生メカニズム

実は、hERGチャネルは繊細で、チャネルに物質が結合したり、周囲のK+の濃度が変化したりするとそれに影響を受けてしまいます。クロロホルムはそんなhERGチャネルに作用し、それを遮断することが示されています。

hERGチャネルが遮断されると、K+の移動が妨害されて、電位の低下が通常よりも遅くなってしまいます。イオンの排出が遅くなることで心拍の間隔が伸び、それによって脈が遅くなる、または止まってしまう可能性すらあります。つまり、hERGチャネル阻害して心臓の動きを妨害するわけです。この程度がひどいと致死的な不整脈が発生するわけです。

hERGチャネルの補足

hERGチャネルは創薬分野では結構な敵なようで、これまで数多くの物質が開発されてはhERGチャネルに関わるせいで散っていったと言われています。このチャネルの構造的に多くの物質と相互作用を引き起こしてしまう関係で、薬の作用とは別に心臓に影響し、ひどい場合は不整脈を引き起こしてしまうわけです。不整脈の薬でそういう性質を持つものもありますし、一部の抗生物質や抗精神病薬でその作用が報告されているくらいには幅広く影響を受けてしまいます。

そんなわけで、薬を作る側としてはなんとか避けたいhERGチャネルですが、現在研究途上でなかなか情報がそろってないらしく、完全な回避は今のところ実現していないようです。幸い細胞に発現させて、それに物質を投与することでhERGチャネルを阻害するかどうかを実験することは出来るため、実際にヒトに使ってみて不整脈が多発したからやめます、のような人体実験的なことは行われていないためご安心ください。

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