日本中を汚染した農薬「BHC」

解説

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BHCとは?

BHC(benzene hexachloride)は有機塩素系殺虫剤の一つです。構造は、シクロヘキサンの環状のそれぞれの炭素原子1つに塩素原子が1つ結合しているだけのシンプルな構造をしています。

BHCには多くの立体異性体が存在していることが知られています。ベンゼンを光塩素化して得られるBHC原体は混合物で、α-,β-,γ-,δ-,ε-異性体がそれぞれ65‒70%,10‒12%,6%,4%,4%の比率で生成することが知られています。

BHCは、農作物に影響を及ぼす多くの害虫に対して高い殺虫力を持っています。しかし、人畜に対する急性毒性も強く、毒物及び劇物取締法で劇物に指定されています。過去には農業用殺虫剤として広範囲に使用されていましたが、食品への残留、生体への蓄積、環境汚染の問題があったため現在では使用されていません。

BHCの発見と利用

BHCは1825年にイギリスのマイケル・ファラデーによって合成されました。BHCの立体異性体のうち、そのうちの一つの「γ-BHC」と呼ばれる物質にのみ高い殺虫活性があることが分かりました。工業的に製造されたBHCに含まれているγ体は15%程度だったと言われています。ちなみに、γ体の濃度を99%以上に高めたものを特に「リンデン」と呼びます(リンデンという名前は1912年に初めてγ体を単離したオランダの化学者テウニスファンデルリンデンから取られています)。当然、リンデンはγ体を抽出するため価格が高くなりますが、それぞれの異性体の持つ欠点は無くなります。

農業用殺虫剤としてBHCが注目されるようになったのは1948年であると言われています。この年はウンカ類の害虫が大量発生した年で、その時使用されていたDDTよりウンカ類によく効いたということで注目されるようになりました。BHCが十分に効果的であったことがわかると、それまでの古くからおこなわれてきた除虫菊や鯨油を使用した防除法は次第に廃れていきました。

稲作にも大きな変化が現れ、これまでニカメイチュウの被害を避けるために晩植栽倍という方法が進められてきましたが、BHCでニカメイチュウを防除できるということがはっきりしてからは早植栽培へと変わっていきました。また、この時期には有機水銀剤によってイネの病気である「いもち病」を防除することが出来るようにもなりました。これらの農薬の活躍により病害虫の対策が進んだことから、コメの生産量は飛躍的に増加しました。余談ですが、有機水銀は1960年代まで使用されましたが、現在は当然使用されていません。

しかし、当時導入されるようになったパラチオンと比べ、BHCは当時はニカメイチュウの防除剤として評価は高いわけではありませんでした。パラチオンは散布でも効果があるのに対して、BHCは散布しても茎の中に入り込んでいる幼虫には効果がなかったためです。しかし、パラチオンはヒトや家畜に対しても強い急性毒性を持っていたせいで中毒事故が多発したこと、BHCも使用方法によっては茎の中の幼虫に効かせることが出来ることが発見され、BHCは再度注目を集めるようになりました。農林省(現在の農林水産省)はBHCの急性毒性が比較的低かったため、使用を推奨したことすらありました。

BHCは多くの害虫に対して有効であったため、稲作だけでなく果樹、野菜、林業など様々な場面で使用されるようになっていきました。毎年数万トンのBHCの原末が田畑、果樹園、森林にまかれていたようです。そして、このほとんどはリンデンではありませんでした。

BHCが抱えた問題

BHCは当初毒性の低い農薬として使用されるようになりましたが、普及するにつれて様々な問題が発生するようになりました。

まず、ウリ科・ナス科・アブラナ科の植物の一部に薬害が発生するということが明らかになりました。この薬害はδ異性体が原因であることが分かったため、これらの植物にはリンデンを使用されるようになりました。

また、BHCの普及で天敵が減った特定の昆虫が大量発生することや、薬剤耐性を獲得した種発生するなど問題が発生していました。これについてはBHCだからというよりは、農薬の性質上仕方ない部分ではあります。

そして、残留した農薬が作物に影響を与えないかどうかも検討されました。それが調べられた経緯は、水田にBHCを使用した後、その裏作としてムギを植えた場合、それに対してBHCの薬害が発生しないのかという疑問が生じたためです。そのためBHCを使用した後ムギを栽培し、そのムギに残留していたBHCの量が検査されました。結果、ムギに残留したBHCは数ppm以下であることが判明し、問題ないと判断されました。

このような問題を抱えてはいましたがBHCの使用量はどんどん伸び、1967年には生産量は4万トンを超えるほどに使用されるようになりました。この時点でリンデンの生産量は1000トン程度でした。

BHC牛乳事件

1969年、とんでもない問題が発見されることになります。なんと、BHCを散布した稲わらを与えた乳牛から得た牛乳にβ異性体が検出されたのです。これにより、多くの県から「BHCを使用していると県内産の牛乳及び農産物が汚染されている疑いを招く」と、BHCの販売・使用について厳しい対応を取るようになりました。当時のサザエさんにも「BHC牛乳」が飲めないという話が取り上げられたほど大きな社会問題になりました。

これをきっかけにBHCの環境汚染について調査がなされ、土壌や河川、魚、人体、母乳まで様々なものについて検査されました。そして、調査対象のほとんどすべてからBHCが検出されてしまいました。この結果を受けて、1969年農林省は製造会社に対してBHC原体の製造中止を要求、規制を強めていきました。

そして、1971年農薬取締法が大きく改正され、毒性が高いものや残留性が高いBHCは要求される基準を満たすことが出来ず、使用禁止となりました。

BHCの毒性

BHCの急性毒性はそれなりに強いことが分かります。そもそも劇物に指定されるレベルなので当然ではあります。

カナダにおいて中毒事例があったのでそれを紹介します。

カナダにおいて、35才男性が、レストランにてグルタミン酸ナトリウムと誤ってリンデン粉末で味付けされたブロッコリーを食べた(推定摂取量は殺虫剤15~30mL)。30分後に嘔気、嘔吐、腹痛、大発作けいれんが出現し、直ちに医療機関を受診した。重篤な代謝性アシドーシスがあり、けいれんは約2時間繰り返された。さらに筋力低下と疼痛、頭痛、一時的な高血圧、ミオグロビン尿症、急性腎不全と貧血症が認められた。リンデン摂取の13日後に膵炎が出現した。第15病日の筋生検では、筋繊維の広範囲にわたる壊死と再生が認められた。その後患者の全身状態は改善し、第24病日に退院した。一年間の追跡調査において患者は近記憶困難、性無欲症、易疲労性を訴えた。なお、リンデン摂取一年後に実施された筋力と筋量を含む身体検査の結果は正常であった。
ハザード概要シート(案)(γ-BHC(リンデン)) より引用

機序については後述しますが、中毒症状は神経系の過剰刺激による症状が出現します。

作用機序

以前解説したベニテングタケの機序と似たようなものではあります。

中枢神経系の機能メカニズム

前提知識として神経伝達と神経伝達物質の知識が必要です。初めてという方はまずはこちらの記事を読むことをお勧めします。

中枢神経では、神経が過剰に興奮しすぎないよう、または興奮が抑えられなさすぎないように信号の強度が厳密に調整されています。これらの調整も他の神経細胞からの神経伝達物質によって行われています。

この時使用される神経伝達物質に「グルタミン酸」「GABA」が存在します。グルタミン酸が興奮シグナルを、GABAが抑制シグナルを担当しています。

BHCの作用メカニズム

BHCは殺虫剤として使用されていたので、まずはその機序について解説します。

BHCはGABA受容体の特定の部位に結合し、Clの神経細胞への流入を抑制してしまいます。Clの流入が抑制されると、神経細胞の電位の低下が起こらないため興奮状態が持続することになります。これによって昆虫は過興奮や痙攣を起こし、最終的に死に至ります。

それではこれがヒトにはどのように作用するのかですが、おそらく同じような機序でヒトの神経系に作用し、興奮を持続させると考えられます。これは、ヒトのGABA受容体と昆虫のGABA受容体の両方がかなり類似したものであるためと考えられます。

ただ、昆虫では末梢と中枢の両方にGABA受容体が存在しているため、その分影響を受けやすい可能性はあります。

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